ナツノヒ

UNISON SQUARE GARDENについて色々触れちゃうブログです。語彙がないから複合技でお送りしております。

【Patrick Mojii】選んだのは"君"じゃなくて〜101回目のプロローグ〜

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        君だけでいい

 

                君だけでいいや

 

 

こんな日をわかちあえるのは

 

 

 

 

                    きっと

 

 

 

つたないイメージと

 

            でたらめな運命値でしか

 

      

 

     

 

                       書き表せないから

 

 

 

     君だけでいい 君だけいいや

 

 

イタズラなプロローグを歌ってる

 

 

           約束は小さくてもいいから

 

    

 

 

     よろしくね はじまりだよ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

何とも耳心地の良いフレーズだと思う。

 

彼らを熱烈に追いかける"物好き"たちにとっては特に。

 

まさにご褒美みたいな仕掛けが最後の最後に施されていた。

 

「Patrick Vegee」というアルバムの構成の妙である。

 

"グチャっとした"景色の先には、壮大なメロディとロックバンドの根幹を垣間見せた…世紀の大団円が訪れる。

 

大多数の"物好き"にとって、そこに異論はないだろう。

 

硬軟織り交ぜたクセの強い曲たち振り回されながらも、それを耐え切った者だけに見ることができる極上のおまけ。…にしてはいささかボリューミーな気がするが。

 

アルバムのコンセプトで表すとすれば、食事の"シメ"であると思う。

 

筆者はもう30を超えたおじさんなので、例えがオヤジ臭くて申し訳ないが、飲み会後に食べるラーメンが1番しっくり来る。

 

居酒屋で色とりどりのメニューを食べて、おいしいお酒をたくさん飲んで、大層な満足感の赴くままに食べるラーメンはまあめちゃくちゃうまい。

 

体に悪いのはわかってるのだけど、やめられない。多分体が求めている塩気と炭水化物を補完して、脳に完璧な食のグラフを完成させることができるんだろう。

 

まあ歳とともに飲んだらラーメン自体が入らなくなってしまうのだが、自分の思いのままに食べたいものを全部食べる…楽しみ尽くした者にだけ与えられる特権みたいなものだ。

 

まさにそれと同じ現象。小気味よく軽快に、そして限りなくミニマムなスタイルで進行してきたアルバムの締め括りで…何層にも折り重なった重厚で洗練された名曲を味わう。

 

そして、足りなかった最後のピースがパチリとハマって、聴き手にとってのアルバムが完成を迎えた。

 

最高潮の高揚感とともに。ハッピーエンドと呼んでも遜色ない幸せな気持ちが広がっていく。

 

「Patrick Vegee」はそのタイトル通り、野菜がモチーフの一つに選ばれている。

 

フレンチのフルコースにおけるサラダは、提供される順番がまちまちらしい。

 

それこそスープの後だったり、メインの後だったり、割りかし自由なんだそう。

 

つまりはコースの大枠には当てはまっていないということ。

 

「Patrick Vegee」のテーマに沿った11曲の至高のフルコースを味わった後に、"シメ"としていただく壮大な野菜のサラダ。

 

カラフルな野菜が散りばめられており、味も見た目もボリュームも美味しい…全方位に隙がない逸品。

 

何となくそんなイメージがしっくり来る。

 

本来の"シメ"はカフェらしいのだが、そんなのお構いなしに、異質な順番でも違和感なく提供されてしまう。

 

どんなにぶっ飛んだ構成でも、型破りな曲が好き勝手に暴れても、ロックバンドの音楽はスゴくて楽しい。

 

また一つUNISON SQUARE GARDENの無敵感が証明されてしまった。

 

それだけで「Patrick Vegee」というアルバムの功績は余りあるものだ。

 

だが、僕はご褒美の意味を好意的な気持ちのみで捉えていない。

 

少なくとも冒頭のフレーズに対して、好意的に終わらせてはいけないと思う。

 

アルバムの深淵を覗いてしまったからこそ、その結末を幸せだけで表現してしまうのは、何とも彼ららしくないと考えた。

 

もっと捻くれた何かが存在している気がする。

 

だから、あえて"ロックバンドの魔法"をすり抜けて、等身大の目線で少しだけ…いや、じっくり語らせて欲しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

前置きが大変長くなってしまった。

 

今回の文は、カウントダウンリレー企画「Patrick Mojii」の1記事です。

 

 

僭越ながら僕が担当するのは、アルバムのラストである「101回目のプロローグ」。

 

企画者として、トリを担うのは責任的な意味で筋だとは思っているが、それはそれとして重圧はしっかり感じているので、ここまで紡がれてきた素晴らしい記事が台無しにならないように精一杯執筆していきたい。

 

ちなみに本ブログでは、ロックバンドの持ち味を損なわずに伝えるため、あえてタイトルは作品・ツアー名や掲載内容をそのまま載せている。

 

今回の企画に際しては、その通例を変えて、記事の根幹となる言葉をタイトルとした。

 

それは企画として足並みを揃えるためでもあるが、各参加者が名付けたタイトルに読み手を楽しませる力を感じたからでもある。

 

個人的にはブログの信念を曲げてしまうほどの魅力を持つ企画に仕上がっているので、参加者の皆さまに感謝を伝えつつ、読者の皆さんは最後まで(あるいはここからでも)楽しんでいって欲しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

"君だけでいい 君だけでいいや"

 

多分ユニゾンじゃなくて他のバンドの歌詞だったとしても、このフレーズを聴いたファンは間違いなく高揚するし、救われた気持ちになるだろう。

 

いちファンでしかない自分が、バンドにちょっとでも影響を与えているのだと思えば、こんなに嬉しいことはない。

 

バンドとの繋がりを感じて、キャリア屈指の人気曲になることもあり得る。

 

だが、UNISON SQUARE GARDENというバンドにおいて、それは違和感でしかない。

 

"自分たちのために音楽をしてきた"と豪語する彼らが、リスナーに向けた曲を作るなんて…まず有り得ない。

 

このロックバンドは、僕らに何かを与えるのではなく、自分たちの好きなこと=みんなの好きなことにしていくことにエネルギーを注ぐバンドだ。

 

やりたいことをわかりやすく伝わる努力なら怠らないが、間違えてもファンサービスをする発想に至るわけがない。ここだけは断言させてもらう。

 

もちろん確証はないし、音楽は個人の感性によるところなので、この主張と180°違う考え方の人がいても否定はしない。

 

ただ、この何かが奥に詰まったような感覚で終わってしまうのは目覚めが悪い。

 

この曲から感じた僕なりの思いを紡がせて欲しい。

 

そして、同じように違和感を感じる物好きにとって、曲に対しての落とし所を考える一助になれば幸いである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

僕が何より注目したのは、

 

"君だけでいいや"の

 

"いいや"

 

の部分である。

 

"君だけでいい"という断定の言葉で終わらない。"いいや"という投げやりな言葉に引っかかりを感じた。

 

一種の甘い連帯感とも受け取れるが、生憎このロックバンドにそんなファミリー意識は似つかわしくない。少々の主観が入っていることを許して欲しい。

 

どちらかといえば、僕は"あきらめ"のような気持ちを感じた。

 

別にいいやの"いいや"に。どこか期待していないような。

 

あ、君もいるの?お好きにどうぞ…そんな風に聴こえてしまった。

 

それはロックバンドがかつて味わった苦い経験が頭をよぎってしまったから。

 

自分たちが最高だと信じてやまない音が、世の中と同じではなかったこと。

 

傑作だと疑わなかった曲たちを、心ない言葉で否定されてしまったこと。

 

信じていないものに介入されて、台無しにされかけた経験。

 

メジャーデビュー当時の彼らは、自分たちが奏でる音楽をもっと大きくできると信じてやまなかったことがかつてのインタビューなどから伺える。

 

だが、そんな期待とは裏腹に、周囲を納得させる成果を出すことができなかった。

 

結果がついて回らないときに求められるのは変革だ。

 

音楽といえども所詮はビジネス、それもしょうがない。

 

しかし、そんな現状に縛られてしまって、ロックバンドが途方に暮れてしまったのは事実である。

 

いわゆる"暗黒期"というやつだ。

 

最終的に自分たちの力と巡り合わせで、大きな変化もなく今を迎えているが、彼らはそこで"人"に頼らなかった。

 

敏腕プロデューサーを入れ続けるとか、存続のピンチにファンを頼るとか…僕が思いつく程度の安直な考えを実行することはしなかった。

 

バンドが持つ強みを120%活かし、それに関わる全ての事柄に対して、最大限のリスペクトを持って取り組んだ。ただそれだけのことだ。

 

当たり前のことなのかもしれないが、揺るぎない価値観を崩さなかったゆえ、大切なものを何一つ捨てずにここまで来れた。

 

そう、本当に大切なものだけは。

 

もう一度繰り返し言うが、それは自分たちの力を信じたからこそ拓けた道なのだ。

 

間違っても、誰かに頼ったからではない。

 

そんな彼らの

 

 

 

"君だけでいいや"

 

 

 

 

決して前向きな気持ちだとは思えない。

 

信じられるものを削ぎ落としてきたからこそ見える景色がある。

 

それが明日への原動力になることもあれば、ふと昨日を振り返るきっかけになることも。

 

大切じゃなかったとしても、大切にしたいと思い続けてきたものはたくさんあったはずだ。

 

「未完成デイジー」という曲がある。

 

3rdアルバム「Populus Populus」や10周年記念アルバム「DOGOUT ACCIDENT」に収録されており、冠ラジオのEDに起用されていた知名度の高い曲であるが、この曲は田淵智也が"言葉"でJ-POPをひっくり返せると思っていた最後の曲であると語っていた。

 

つまり現状の音楽活動では、少なくとも"言葉"で伝えることは諦めたのである。

 

ならば、そもそも歌詞から易々と意図がわかるはずない。

 

4thアルバム「CIDER ROAD」以降はそれが顕著で、誰もが伝わる劇的な言葉選びというものは鳴りを潜めている気がする。

 

そうやって大多数に伝わりそうなものを潔く切り離していき、本当に大事なものだけが手元に残っているのだろうか。

 

 

"後悔はしてないけど たまにね ときどき思い出すよ"

 

 

本当に後悔はないとしても、きっと何も感じないわけでもない。あくまで推測の域は出ないけれど。

 

もっとできたこと、受け取れたこと、可能性の幅は過去になったからこそ現実味を帯びる。

 

目の前にあった選択肢は今とまた違った意味で選ぶ価値のあるものだったのかもしれない。

 

実際にやりようはいくらでもあったはずだ。

 

ただ、彼らは天秤に測ったのだ。

 

自分たちの音楽と名声…両立ができないふたつを秤にかけて、前者を選んだ。

 

もしかしたら…と願望を込めて、自分たちの音楽がそのまま世間に広く認められることへの期待もあったが、残念ながらそうはならなかった。

 

CIDER ROAD」も「春が来てぼくら」もJ-POP界が土下座をしに来ることはなかった…田淵智也はそうブログで話題にしていた。

 

名前のない誰かの感情に素晴らしい色がつくこと…大多数の人間とってはどうやら魅力的とは思えないらしい。

 

きっとみんなが好きで万人に認められた世界の方が…居心地の良い人が大半なんだと思う。

 

自分だけの揺るぎない価値を持ち続けることはこれだけ素晴らしいことのはずなのに。

 

何とももったいない話である。

 

今はもうそれすら諦めて、吹っ切って、こんな歪なアルバムを制作しているのだろう。

 

だからこそ…この曲のフレーズは決して明るいものではないと思う。

 

全てを投げ打つ覚悟で走り抜いて、ふと振り返った先に残っていたもの。

 

そんなに多くはないけれど、確かに存在していて、信頼しているもの。

 

素晴らしいと信じて駆け抜けた道中で削ぎ落としたもの。

 

頼もしさと安堵と切なさと憤りと…清濁混ざった色んな感情がそこにはあったのではないだろうか。

 

音を楽しむシュガーな時間に垣間見せる少しだけビターな感情…どうしようもない現実とそれすらも塗り替える強い気持ちが合わさっているように思えた。

 

幸せそうに音楽を鳴らす彼らにも、何かを選んで、諦めて来た歴史がある。

 

その事実は揺るがしようがない。

 

だからこそ、他人事のような気持ちで"いいや"と歌っているのかもしれない。

 

その結果は決して順風満帆ではなかったから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そうすると、"君"にそこまで興味は持っていないのだろう。

 

ついてくるならお好きにどうぞ。

 

僕らは好き勝手やるから、"君"も自由にやってろ。

 

僕らと彼らは、ただの甘美な"共犯関係"。

 

"永劫他人"な僕たちは、交わることはあっても、お互いに干渉し合うことは多分一生ない。

 

そもそも田淵は、この曲が"バンドとファンの温度感を歌ったもの"であることを真っ向から否定している。

 

だから、根本的に"君"が人であるとも限らない。

 

愛する音楽に向けてかもしれないし、いつも近くにいる楽器たちのことかもしれない。

 

仮に人だとして、普段助けられているスタッフのことを指している可能性だって十分あり得る。

 

そっちの方がUNISON SQUARE GARDENらしいというのは、何とも可笑しな話だけれども。

 

ただ、もしかすると…ここまで残ったバンドを構成する要素全てである可能性もあり得る。

 

そうなると、僕ら"物好き"にもチャンスがある。

 

彼らが諦めなかったもののひとつとして、名を連ねることができるかもしれない。

 

けれども、"君だけでいいや"なのを忘れてはいけない。

 

彼らが望んだのではなく、自分が選んで残り続けたという、変えようのない事実は誇ってもいい。

 

けれども、あくまで僕らがここにいるのは自ら望んだ結果なのだ。

 

別にロックバンドに求められたからではない。

 

どうあがいても、彼らの音楽を享受する立場でしかないことをよく戒める必要がある。

 

僕らにできるのは、ロックバンドがロックバンドであり続けることを見守ることだけ。

 

そうして、彼らがでかい音を鳴らすときにそれを体感する資格を得ることができるのだ。

 

今日も明日も、ロックバンドは"ちょうどいい温度感であれ"。

 

彼らと僕らの関係はちょっとしたことで変わることはない。

 

それは自信を持って断言できる。

 

だからこそ、

 

"君だけでいいや"

 

という言葉を過不足ない意味で受け取る必要がある。

 

決して選ばれたわけじゃない。

 

彼らに望まれたものではなく、自らの意志で残ったものであるということを。

 

永遠に近づくことができない存在であるということを。

 

この先もできるのは彼らを追いかけ続けることだけ。

 

間違っても僕らが主役になることはない。

 

居座れるのは端っこのスペースのみ。

 

でも、そこは割と大事な場所らしいので、いつでも席は用意してくれている。

 

追いついた先の景色は僕らが満足できないもののはずがないから。

 

また手を伸ばせば、何とか掴み取ることはできるんだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

"本当の気持ちを話すのは 4年ぐらい後にするよ"

 

そんな彼らが数年に1度の祝祭だけは、少しだけ油断をしてくれる。

 

「Patrick Vegee」の発売日は2020年7月15日を予定していた。

 

昨今の感染症の影響で、結局9月30日にずれ込んでしまったが、本来の発売日でいくと、4年後のこの時期は20周年の記念日が迫っている。

 

バンドにとって本当に大事な何かは…曲に忍ばせている。

 

それがUNISON SQUARE GARDENの流儀だと信じてやまない。

 

この意味がわかるのは、おそらく20周年イヤー。

 

それまではまだ見えなくてかたちのないものたちに思いを馳せていく。

 

毒蛇が這い回ったり、祝祭の鐘が鳴ったり、混沌が極まったり…そして、その先で待っている景色に対しても。

 

"そうやって日々を縫う"ためのプロローグ。

 

この曲にそんな役割があるとするならば、そこに向けて…今あるものを再認識するための大事な始まりの歌なのかもしれない。

 

アルバム最後の曲でありながら、"プロローグ"という名を冠した意味…何度でも何度でも始まっていくロックバンドの新しいステージの境目を担っていく役割もあるんだろう。

 

"よろしくね はじまりだよ"

 

15周年を本当の意味で締めくくり、また新しい時代へと飛び出していく。

 

この歪なアルバムには、実は重要な役割が与えられたのかもしれない。

 

そうした"いつも通り"にシフトしていくために、この壮大なプロローグは用意されたのだろうか。

 

もしかしたらその先には、別の新しい言葉が用意されているのかも。

 

それがわかるのは、約2年後。

 

大仰だけどそっけないプロローグに隠された正体は、今のところ彼らにしか姿を見せていない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

委ねる。

 

この言葉がしっくり来るだろうか。

 

"そうやって鼓動を待つことにしたよ"

 

"ちゃんと幸せになる準備もしてるよ"

 

先ほど述べた"投げやり"感のようなものを受け取ったとき、切なさは感じても、無責任さはまるで感じなかった。

 

多分それは一切の迷いが見えなかったから。

 

 

自分たちの音楽は万人にとっての魔法ではない。

 

だけど、こんなに素敵なんだ。

 

 

そんな心情が透けて見える。

 

数えきれないくらいの失望とかすかな希望を重ねて、彼らは今日まで止まることなく歩みを進めてきた。

 

そこでフォーカスしたのは、不意にしか覗かせない希望であった。

 

その希望を紡いで、固めて、膨らませて、揺るぎないものへと変貌を遂げた。

 

彼らは知ったのかもしれない。希望が決して消えないものであることを。

 

量ばかり多い絶望よりも、かすかでも輝きを失わない希望の方が立ち続ける両足を強固に支えてくれることを。

 

ニゾンにとっての希望が何かはわからない。けれど、それさえあれば、ロックバンドはなくならないことに気づいたのだろう。

 

彼らは楽しいことだけを見続ける。

 

遊び尽くしたその先に、誰も味わったことがない幸せが待っていることを信じて。

 

だから、それ以外のことの優先度はまあ低いだろう。

 

先の不安はいつかの誰かに任せて。

 

まだ見ぬでっかい"鼓動"が鳴り始める瞬間を待ち侘びている。

 

それは聴き手も同様で。

 

追いかけ続けるしかなくても、彼らが信じる幸せを享受するかどうかを選ぶ権利は当然ある。

 

ただ、僕はいつもユニゾンの楽曲を聴いて思い浮かべることがある。

 

俺たちは幸せだ。君はどうだ?

 

もちろん答えに一切興味はないだろう。そもそも、僕の勝手な理想像の彼らだ。

 

ただ、でっかい音を浴びて幸福を感じ取れるからこそ、それが当然の答えであると考えているはず。

 

そんな考え方は、何度も足を運んだライブから透けて見える。

 

そんな人たちだからこそ、こんな質問が脳内で勝手に解釈して、生み出されてしまうのかもしれない。

 

責任を持つのは音を鳴らすところまで。

 

それで幸せになれることを確信しているのだ。

 

だからこそ、必要以上の準備も作業もせずに、自信を持って受け手に委ねることができるのだろう。

 

僕たちは自由に音楽を聴く権利がある。

 

だからこそ、委ねられた問いの答えを知れるのは、自分自身しかいない。

 

音楽という没入体験に深く入り込んだ代償は自分にしか払えないんだ。

 

間違ってもそこにロックバンドは存在していない。

 

薄いけれど、確かに頑丈な透明のカーテンが広がっている。

 

きっとその先は進めないんだろう。こんなにはっきりと見えるのに。

 

その世界に深く潜り込んだときに、感じるのは幸か不幸か。

 

僕は大体前者なことが多い。

 

干渉されないのはこちらも同じだから。

 

あれこれと指図されるなんて、絶対に楽しくない。

 

最初から最後まで決めるのは自分。それが満足いかなくても、それはそれでまた一興。

 

何にも縛られずに選んだものだけを全て享受できるなんて、どれほど幸せなことだろうか。

 

そんな風に楽しみ方を委ねてくれるなら、無機質な関係性でも大歓迎だ。

 

選んだ景色がどれほど壮大なのかは…ロックバンドが好きな人なら、今さら説明する必要もないだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

雨上がりの虹はなかなか見ることができない。

 

世界的には4色だったり、6色だったり…色んな見え方があるけど、日本では7色が一般的だ。

 

希望の象徴みたいなものなのに、見えるのはよくて年に一度…そういえば、もうかれこれ数年見ていない。

 

 

 

雨はずっと降っている。

 

こっちが望まなくても勝手に天気は荒れて、世の中的に必要なのはわかってるけど、やっぱり気分は鬱屈となる。

 

天気は晴れ上がっても、綺麗な虹がかかることはあまりない。

 

晴れは嬉しいけど、日常的すぎて安心感はあっても前向きな気持ちには自然とはならない気がする。

 

 

 

何だか希望と絶望の関係に似ている。

 

絶望は気軽に顔を覗かせる。お呼びじゃなくても、心が荒むといつの間にか背後に現れる。

 

気づくと広がっているのは果てしない暗闇。

 

だけど、本当に時々…その絶望を塗り替える希望が胸の内から湧き出ることがある。

 

諦めかけていた出来事に光が差したときとか、誰も興味を示さなかった伸ばした手を掴んでくれたときとか。

 

それは本当に薄くて小さな希望のはずなのに…信じられないぐらい大きな力になる。

 

狙って出せるものじゃない。だからこそ、出会えたときには、絶大なエネルギーを僕らに与えてくれる。

 

そんなフルカラーな景色は、空にも心にも平等に映し出すことができる。

 

世界は意外とたやすく七色になるらしい。

 

ただ、見えていることに気づいていないのかもしれない。

 

「Patrick Vegee」の前トラックである「Simple Simple Anecdote」で、こんな印象的なフレーズがある。

 

"全部が何かってことに気づいてないだけ"

 

"誰にもわかんないことを 解き明かしても 誰にもわかんないまんまでいいのかも"

 

全部をわかっていない僕たちは、まだまだ知らないものがいっぱいある。

 

でも、同時に知らなくていいものもどうやらたくさんあるらしい。

 

今、見えているものは果たしてどちらなんだろう?

 

モノクロの景色は一体何を与えてくれるのか。

 

もしかしたら、知らなくていいのかもしれない。

 

ステージの照明みたいに、いとも簡単に世界が七色に変わるのならば。

 

"知らないままで遊びに行こう"

 

少なくとも、この曲での答えは出ていたようだ。

 

それも長年の活動で洗練されたゆえの自信。

 

絶対なんてないし、選んだ答えは自分で正解にできる。

 

別にやりたくないことに無理に向き合う必要もない。

 

義務感を徹底的に排除したスタイル。

 

何て自由な生き方なんだ。そして、美しい。

 

不純物が一切ないからこそ、重苦しさや絶望とは無縁の到達点。

 

まさに"完全無欠のロックンロール"がそこにはある。

 

何だか目を逸らすことは、思ってたより悪くないのかもしれない。

 

無知を正しく恐れれば、存外怖くはないのだろう。

 

明日の不安は誰かに任せて。

 

やるべきことに集中できるからこそ、見れる景色がそこにある。

 

どんな生き方でも、そこに意志が宿れば、揺るぎないものはすぐできる。

 

今日の予定も、明日の気持ちも、自分で選んでいいのなら。きっと、

 

"世界は七色になる"

 

至る所に希望はあって、楽しいことは無限に広がる。

 

そこにだけ目を向けておけば、どんな絶望の雨の後でもきれいな虹がかかるんだろう。

 

委ねられた先がそうならば。

 

"君"じゃなくて、他でもない"僕"が成し遂げられるはずなんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここで、一度"ロックバンドの魔法"に立ち返らせて欲しい。

 

世の中には、衰えないものはまず存在しない。

 

いつか、この魔法も解ける日が来る。

 

飽きるか、死ぬか、それともまた別の魔法にかけられてしまうか。

 

そうなると一抹の寂しさを感じてしまうのは当然のことだ。

 

それぐらいにロックバンドの魔法は、僕らの日常を彩ってくれている。

 

だけど、もし永遠に消えない魔法があったとして…そこに魅力を感じているだろうか?

 

少なくとも僕はそうではない。

 

音楽は一瞬で儚くて、それなのに誰かを幸せにできる不可思議なパワーがあり、まさに魔法のような力を秘めている。

 

だからこそ、

 

12時過ぎても解けない魔法なんて絶対に欲しくない。

 

いつも横にいる存在じゃないからこそ、揺るぎない安心感がある。

 

僕の喜怒哀楽の感情どれかが崩れかけたとき、いつの間にか姿を見せるんだろう。

 

だったら、眠れない魔法よりも安心して目を閉じさせてくれる方が圧倒的に信じられる。

 

だって、歩いているのは他でもない自分自身だから。

 

ロックバンドの魔法は、僕らを依存させることはない。

 

立ち上がった瞬間に、どこかに姿を消してしまう。

 

音楽に支えられなくても、この両の足で立ち続けることができる証明みたいになってくれるのだろう。

 

ああ、僕らはいつでも自分の力で立ち上がることができるんだなぁ…進めるかどうかは置いといて。

 

でも、"わからずやには見えない魔法"は今も解けないままだ。

 

立ち上がってもまた膝をつき、再びその魔法に力を与えられる。

 

ソッと背中を押してくれるように。

 

音楽は、ロックバンドは、僕の生きる糧になっている。

 

ライブででっかい音を聞くと、その魔力で胸は震える。そして、心は高揚する。

 

モノクロの明日も一瞬で七色に塗り変わる。

 

僕にも世の中にも、ユニゾンの音を求め続ける瞬間はまだまだたくさんある。

 

いつかのこの魔法が体からいなくなってしまうことがあるのかもしれない…でも、

 

ロックバンドの魔法は解けることはあっても、途切れることはない。

 

今日もどこかの街で、魔法が生まれる気配がする。

 

だから、もし魔法が解けてしまったとしても、きっと望めば巡り会えるはずだ。

 

また生きる力を取り戻していくために。

 

"君だけでいいや"

 

と近くて遠いこの場所に居座ることを許してくれるのならば…。

 

何度でも魔法を浴びに来てしまうのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この盛大なプロローグには、さりげない終焉といつかの開幕に向けた確固たる意志が内包されている。

 

まわりくどい癖に聴く者を安堵させる不思議な感覚は、紛れもなくUNISON SQUARE GARDENの為せる技だ。

 

終わりに向かっていた体は、気づけばまた新しいステージに足を運んでいる。

 

いつの間にか明日の生きる力が湧き上がっているのだ。

 

選んだのは僕だ。

 

ロックバンドが選ばせに来たわけではない。

 

自分の目で、耳で、肌で感じて手を伸ばした至高の幸福なのである。

 

だからこそ、彼らがどうかなんて関係ない。

 

UNISON SQUARE GARDENは、どでかい音を鳴らし続けてくれればそれで良い。

 

それ以外はあんまり関係ない。

 

勝手に幸せになる自信はあるから。

 

たまには僕らからも言わせて欲しい。

 

 

 

 

 

僕とあなたたちは特別な関係じゃない。

 

 

 

 

 

 

音楽という繋がりで成り立つただの共存関係なんだ。

 

助け合うことはあっても、馴れ合いなんてもっての外。

 

でも、揺るぎないし、絶対に途切れることはない。

 

そう確信できる。

 

だから、いつでもこの街に遊びに来て欲しい。

 

顔も名前も知らないであろう僕らは、あなたたちが心底楽しめる場所を用意できるから。

 

それだけの関係性で十二分だ。

 

いつか約束した秘密基地にまた集まれますように…。

 

そうして、僕らは再び"日々を縫っ"ていく。

 

紡いだ先に、最大級の幸せがあることを信じて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アルバム「Patrick Vegee」もいよいよ終着点。

 

企画「Patrick Mojii」も明日で最終日を迎える。

 

お楽しみいただけただろうか?

 

いや、人によってはここが読み始めかもしれないのか。

 

大丈夫、安心して欲しい。

 

この"グチャっとした"アルバムの記事は、きっとどこから読み進めても十分に楽しむことができる。

 

何たって今回は"プロローグ"でもあるしね。

 

壮大な始まりを経た、本来のスタートはまた違った景色を見せてくれるかもしれない。

 

明日の文字はネットでも読める。

 

 

 

 

珠玉の12本の記事…ぜひ楽しんで欲しい。

 

 

 

うん、もう満足だ。お腹いっぱい。

 

…嘘だね。明日には多分また腹が減る。

 

案外僕も欲張りな人間だったらしい。

 

目の前にご馳走が用意されていたら、どうにも我慢できそうにない。

 

次のメニューは、フィエスタ…イン…カオス…?9…まい…め…?

 

どんな味かはわからない。懐かしいかも、新しいかも、そもそも理解できないかも?

 

大丈夫、この行きつけの店の料理人は抜群の腕前でどんな材料も華麗に調理してしまうらしい。

 

新メニューの登場は秋と…もうひとつはまだ未定なのか。

 

あ、じゃあこの大好きな"グチャっとした"アルバムは新メニューではなくなっちゃうんだね。

 

それだけは少し残念かな。

 

 

 

 

 

…待てよ、つまりは"定番"のメニューなるってことか。

 

 

 

となると、また違った景色が見えそうな気がする。

 

ロックバンドの可能性はいつまで経っても無限大だ。

 

次にこのアルバムと向き合うときは、今と違う感想を抱いているかもしれない。

 

だとしたら、ここで食したことは大きな意味がある。

 

このアルバム、食べるたびに味が全然違うから。

 

時を超えた食べ比べ…今から楽しみでしかない。

 

ひとまず今回の晩餐はここらでお開きらしい。

 

おいしかったとか、美しかったとか、そんなありきたりな感想しか出てこないけど。

 

胸もお腹も幸せでいっぱいだ。

 

そんな事実だけで明日も生きていけそう。

 

少なくとも僕は十分に満足できたから。

 

この言葉で今回の記事を締め括りたい。

 

さあ、大きな声で言わせてもらおう。

 

 

 

 

 

 

 

 

"ごちそうさまでした"